映画『葛城事件』は、観たあともしばらく心に重く残る作品です。
フィクションとはいえ、あまりにリアルで、現実の事件と重ねてしまう人も多いのではないでしょうか。
今回は映画の中身と、実際に起きた事件とのつながりについて、自分なりの視点で掘り下げてみたいと思います。
映画「葛城事件」とは?
『葛城事件』は、殺人犯の家族、特に父親に焦点を当てた心理ドラマです。
加害者を生んだ家庭の“空気”や“常識”がどれほど異質か、じわじわと伝わってくるんですよね。
しかも一方的な加害ではなく、家庭内の些細な積み重ねが歪みを生んでいたところがリアルで、妙に怖かったです。
長男を溺愛し、次男をどこか疎外していた父親。
その父の独特な正義感と、無意識の支配が家庭全体を覆っていく描写が強烈でした。
正しさって誰が決めるのか、考えさせられるシーンが多くて、観ている途中で何度も胸が苦しくなりました。
セリフや空気の間の取り方、そして登場人物の表情。
どれも「現実にありそう」で、どこかで見聞きした家族のように感じてしまう。
映画というよりは、誰かの実録を見せられているような感覚に陥りました。
映画「葛城事件」実話の事件とは?
この映画を観たあと、すぐに調べたくなったのが「これって実話なの?」ということでした。
明言されてはいないものの、多くの人が指摘しているのが「附属池田小事件」や「秋葉原通り魔事件」、そして「名古屋立てこもり事件」など、過去に日本で実際に起きた無差別殺人事件との共通点です。
特に「秋葉原通り魔事件」との類似点はかなり指摘されています。
加害者が孤立していたこと、家族との関係がうまくいっていなかったこと、そして突然の衝動的な凶行に至った経緯など、重なる部分が多いように感じました。
ただ、映画そのものは特定の事件を描いたわけではないらしく、いくつかの実際の事件を組み合わせて、家庭や社会の闇を浮かび上がらせている印象でした。
どこかに実在した家族のようで、けれどどこにも実在していない。
そんな不思議な距離感が、観る側の心をざわつかせるんだと思います。
秋葉原通り魔事件との比較
個人的にもっとも強く重なって見えたのが、2008年に起きた「秋葉原通り魔事件」です。
この事件の加害者は、幼少期から親からの過干渉や期待に押しつぶされそうになっていたといわれています。
学歴や就職など“世間体”を重視する家庭の中で、思うようにいかなくなったとき、精神的に追い詰められていった流れが報道でもたびたび取り上げられていました。
映画『葛城事件』の父親も、家庭の“正しさ”を絶対のものとして押しつけていた描写があります。
その一点で、秋葉原の事件との重なりが感じられて、観ている側としては胸がざわついてしまいました。
名古屋立てこもり事件との共通点
2007年に起きた名古屋の立てこもり事件も、どこか通じるものがあると感じました。
加害者は周囲とのつながりを断ち、閉じた生活の中で怒りや憎しみを抱え込んでいたそうです。
社会との断絶が深まるなかで、ある日突然凶行に及ぶ。
その孤独と怒りの積み重ねが、映画の登場人物の姿と重なる気がしたんです。
映画の中でも、家の中にいても孤独な登場人物が何人も描かれていました。
親子なのに目を合わせない、会話が通じない、でも外から見れば“普通”の家庭に見える。
そういうところが、一番の恐ろしさだと思いました。
映画の背景にある複数の実話事件
『葛城事件』は、劇団「THE SHAMPOO HAT」を率いる赤堀雅秋が、自身の舞台作品を映画化した作品です。
2013年に上演された舞台版は、2001年に大阪で発生した「附属池田小事件」をモチーフにしていたとのこと。
小学校に侵入した犯人が児童と教職員を襲ったこの事件は、今も語り継がれる凄惨な出来事です。
しかし映画化にあたっては、赤堀監督はこの事件に加えて「土浦連続殺傷事件」「秋葉原通り魔事件」「池袋通り魔殺人事件」など、さまざまな無差別殺傷事件の加害者像や家庭背景、公判の傍聴記録まで参考にし、キャラクターを再構築したと語っています。
いわば“実録”ではないけれど、いくつもの現実の断片を織り交ぜたリアリティの塊。
だからこそ、『葛城事件』の登場人物や家庭の空気があまりにも生々しく、観る者の心をざわつかせるのかもしれません。
実際、SNSやレビューでは「傑作」と称賛する声がある一方で、「後味が悪すぎる」「もう一度観る勇気がない」といった感想も目立ちます。
それだけ、現実の事件を背後に感じさせる強烈な作品だという証なのだと思います。
映画「葛城事件」実話と映画との比較
映画『葛城事件』の登場人物や事件は、実際に日本で起きた無差別殺傷事件を背景にしています。
映画が描く家族は、どこにでもありそうな家庭ですが、その内部で起きる歪みが大きな事件へと繋がります。
特に注目すべきは、家族内でのコミュニケーションの欠如や、期待やプレッシャーが積み重なった結果として起きた暴力です。
例えば、映画の父親のキャラクターは、家族を支配しようとする強い意志を持ち、家庭内で一方的に正しさを押しつけます。
この「過干渉」や「過度な期待」が、映画の登場人物が暴走してしまう原因の一つとなっているのです。
この点は、実際に起きた「秋葉原通り魔事件」などと非常に重なります。
実際の事件との違い
一方、映画『葛城事件』は厳密には実際の事件を再現したものではなく、複数の事件を参考にして創り上げられたフィクションです。
たとえば、映画が参照した事件には、犯人が抱えていた家庭内の問題や孤独感が大きな要因として描かれていますが、実際の事件では犯人それぞれの背景が異なるため、映画とは若干のズレが生じる部分もあります。
「附属池田小事件」や「秋葉原通り魔事件」などの無差別殺傷事件の加害者たちも、映画の登場人物と同じように家庭内での疎外感や、社会とのつながりのなさが問題となっていたことが分かっています。
しかし、実際の事件では加害者の心情や動機がもっと複雑で、多くの要素が絡み合っているため、映画で描かれる単純化された家族内の緊張感がすべてに当てはまるわけではありません。
映画が描く「家族の絆」とその崩壊
映画『葛城事件』で特に印象的だったのは、家族の絆が崩壊する過程です。
映画の中で、父親は長男と次男を明確に区別し、愛情をかける方向にも偏りがあります。
この家族内での不均衡な愛情の与え方が、登場人物の心に大きなひずみを生じさせ、事件の引き金を引く要因となるのです。
実際の事件でも、加害者が家庭内での疎外感を抱え続け、それが暴力行為に繋がった例がいくつかあります。
実際の犯人たちも、家族内での不和や誤解を感じることが多く、その鬱積した感情がやがて凶行を引き起こすことが分かっています。
映画では、この家庭内の緊張感を視覚的に表現し、家族という社会の最小単位がどれほど大きな影響を与えるかを強調しています。
実際に起きた事件でも、家庭内の問題が積もり積もった結果として、社会での事件にまで発展してしまったことが多いです。
「フィクションだけど他人事じゃない」と感じた瞬間
映画を観ていく中で、何度も「ああ、自分の身の回りにもこういうこと、あったかも」と思いました。
親が“正しさ”を一方的に押しつけてきたこと。兄弟姉妹での不公平感。
些細なすれ違いが何年も尾を引いて、気づけば取り返しのつかない関係になっていたこと。
思い当たる節が多すぎて、観ている途中から他人事とは思えなくなってしまいました。
自分自身、思春期に家庭の空気に窮屈さを感じたことがあります。
大人は何も悪気がないのに、子どもからすると“監視されているような圧力”がある。
その違和感って、大人になると薄れてしまうけれど、当時は本当にしんどかった。
そういった記憶が、映画の中のキャラクターたちとどこかリンクしてしまったのかもしれません。
「なんでそんなふうになるの?」じゃなくて、「そうなるのもわかる気がする」という怖さ。それがこの映画のリアリティだと思います。
まとめ
観終わって感じたのは、「加害者の背景」や「家族の物語」も、ちゃんと見つめなきゃいけないんだなということでした。
もちろん、加害行為そのものが許されるわけではないし、被害者への配慮は最優先であるべきです。
ただ、それと同時に「なぜこんなことが起きたのか」を考えることも、社会の一員として必要な視点なのかなと思いました。
映画『葛城事件』は、その答えを直接くれるわけではありません。
でも、考えるきっかけを与えてくれます。家庭内での違和感、親子の距離感、言葉にならない孤独。
そういったものを直視する勇気を与えてくれる作品だと感じました。
もし今、家族との関係にモヤモヤしている人や、「自分なんていないほうがいい」なんて思ってしまう人がいたら、この映画は何かヒントになるかもしれません。
観てラクになるわけじゃないけど、少しだけ視点を変えてくれる、そんな不思議な力を持った作品です。
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